“I(私)”と“We(私たち)”で見えている世界

西洋思想では“I(私)”を主語にして世界を見る視点が強いが、アフリカにはウブントゥ(ubuntu)という“We(私たち)”を主語にして世界を理解する視点があるそうだ。


認知論的には、私たちは自分の目に写っているもの以外は認識できず、しかも写っているものが本当に存在しているのかどうかはわからない。見ているもののアイデアを認識しているだけかもしれないし、本当にそこに物質的に存在して他人の認知と共有できるかもしれない。(究極的には、私という存在さえも本当に存在するのかどうかさえも分からないのだけれど、自分の存在については問わない、というルールを議論の出発点で設定する。)


“I(私)”は自分の目に写っているものからの世界、“We(私たち)”は個々が見ているものは共有できるという世界、ということになる。


さて、24時間のうちにどのくらいを“I(私)”の視点で世界を見ていて、また“We(私たち)”の視点で世界を見ているのだろう。


暮らしている場所が都会的な場所なのか、農村的な場所なのか。仕事がオペレーションを担当するものなのか、何かものをつくるものなのか、誰かをどこかに運ぶ仕事なのか。男性なのか女性なのか。誰かと一緒に暮らしているのか、一人暮らしなのか。本を読んだり映画を見たりするのが好きかどうか。体を動かすのが好きか。複数言語を話すか。などなどなど。


ある人のそのときのありようが、「私」と「私たち」の世界観の行き来をつくっているように思う。


Deep Dive期間中に参加者(潜水員)はどんな主語で世界を見るのだろうか。(それをデザインするってワクワクする!)


(書き手:クドウ)

0コメント

  • 1000 / 1000